
100年の残影【西部の写真家・松浦 栄】
よみがえる100年前のアメリカ西部の姿! “フランク ”と呼ばれた稀有の写真家の足跡を追ったフォトドキュメンタリィ。 収録写真290葉(内松浦栄の100年前の写真96点) ──────────────────────────────────────────────────── フランク・マツーラの痕跡を求めて 序にかえて 岡井耀毅 初冬のある日、私は東京・半蔵門のJCIIフォトサロンで催されている栗原達男写真展「松浦栄(まつらさかえ)のオカノガン・100年」(2010年10月30日〜11月25日)を見た。 会場には、このほとんど知られていない先駆的な写真家の苦心の写真アメリカ大西部開拓の残光の中に息づかいをあらわに立ち上がっていた。ワシントン州の奥地オカノガン峡谷の閑散とした街や村々の庶民風景だが、じっくり見ていくうちに百年の歳月をへだてていて、それらの写真が遠い異国の昔の風物であるにもかかわらず、身近にあるものとして、やさしく語りかけるような懐旧の情感をたたえてくるのに驚いた。それは、けっして単純に過ぎ去った時間の重みが発信してくるだけのことではなかった。 たとえ太平洋をへだてたアメリカの辺境の地とはいっても、その地で生涯を終えた写真家の血流の淵をのぞき込む感慨がひとしおであったためか。あるいは、フランク・マツーラと名乗った松浦栄の写真を、抱きしめるように、溶け込むように、混じり合って併展されている栗原達男の松浦思慕ともいえる熱情的な追跡の情念に胸を打たれたせいであったのか。 栗原達男はまず、松浦が20世紀元年の1901年(明治34年)春に上陸したシアトルの街の現場に立ち、松浦がたどったコロンビア川をさかのぼり、支流オカノガン川の船着き場まで徹底的に追跡する。そして、残された数少ないシアトルの町の松浦の写真から推測して彼の暮らした痕跡をさぐるように撮り、さらにオカノガンでの松浦の写真と同じ現場に立って定点的な撮影をつづけていった。幼少の頃に松浦を目撃した生存者をたずね、松浦の大ファンに会い、銀山開発で活気があった当時を偲ばせる情景とだぶらせて現在の街景や風物を撮り収めているのだ。 興味深いのは、松浦栄が残したオカノガン周辺の写真に、1909年(明治42年)の頃、オカノガン川畔にできた野球場でプレーする村人たちが写っており、いち早く当時、アメリカに野球ブームがゆきわたっていたことを示している。それから約百年後にイチローが渡米して、松浦がスタートした同じシアトルで大リーグデビューをするという奇縁もなにか運命的な符号のように思えてならないのだ。 松浦栄・その人物像 いったい松浦栄とは、どんな人物だったのか。松浦栄は1873年(明治6年)、東京・向島に生まれている。明治維新で没落したが、旗本与力の家柄だった。幼少の頃に父母を喪い、苦学して成長した。キリスト教に入信し、アメリカ帰りの牧師から英語や写真術の初歩を学び、27歳のとき単身渡米した。栗原達男の著書『フランクと呼ばれた男』(情報センター出版局、1993年刊)や『週刊朝日』(1982年2月5日号、同年6月1日号)などによると、シアトル滞在は短く、まもなくオカノガン峡谷の銀山景気にわく町のホテルに皿洗いで住み込み、やがて三脚付カメラをかついで開拓地やインディアンの居留地などに出入りして生活風景や風土風俗を撮りはじめている。まもなく写真館を開業して、しだいに声価を高め、町の名士たちとも親交をふかめて繁昌したようである。たくまざるユーモアのある誠実な人柄で、白人、黒人、先住民のインディアンを問わず隔意なく人間的に交際して、「フランク」(率直で裏表のない)と親しみ呼ばれ、敬愛された。だが、病魔にむしばまれ、1913年、路上で喀血死するという悲劇的な最期でこの世を去っている。享年、39歳。 「彼は白人の写真家と違ってたいへん知的で紳士的だった」と松浦栄を知る人たちは言い残しているが、最初に松浦栄の写真を編集したジョアン・ロー女史による『FRANK MATSURA−Frontier Photographer』(1981年シアトルで刊行)を見て、私がなによりも感慨深いのは、彼の残した写真の中から多くのインディアンの肖像や生活光景が収められていることだ。インディアンに強い関心を抱いていたといわれるが、単なる好奇心からとは思えない。松浦の目差しは優しく、かれらは親愛をこめて写されているように思える。英語もかなりできたらしいが、インディアンと親しくつき合うためにチヌーク語(フランス語、英語、インディアン語の混合語)までマスターしていたという。 松浦栄のインディアンへの親近感は、おそらく彼の日本脱出とも深いかかわりがあったのではなかったか。明治初期、薩長の藩閥政府権力から圧迫される旧幕臣の悲哀を身にしみて感じた彼は、異国の大地に骨をうずめる決意を固めたとき、身近な居留地におしやられて差別されているインディアンに格別な共感を抱いたのではなかったか。 ここには、21世紀的現実の先駆ともいえる「共生感覚」が稔り豊かに根を下ろしつつあった状況がうかがえるのである。前述したように会場の写真群が語りかけてくる懐旧の情念は、そうした風土に溶け込む友愛スピリットの松浦栄の強烈な共生意識からくるようにも思えるのであった。そうではなくて、どうしてアメリカNBCテレビが「20世紀初年に外国から来た偉人」とまで称賛するであろうか。 百年前の「共生意識」 紙数が尽きるので、この辺でやめるが、要は、いま21世紀の冒頭に当たっていや応なしに直面しているグローバリゼーションの潮流の萌芽ははるか明治初年から、その幕を切って落としていたという事実である。むろん、当時まだ建国百余年の新興の自由みなぎる新天地にあこがれた野心的な渡米であったにちがいないが、いまでは逆に、わが国への外国人の流入が激しさを増す一方である。すでに外国人労働者はざっと70万人に達し、この10年で3倍にふえている。国連などの推計では、世界各地に母国を離れた外国暮らしが約1億二千五百万人(うち難民約千八百万人)で、ほぼわが国の総人口にひとしい。まさにモノ、カネ、情報が地球規模で動く未曾有の時代が到来しているのである。 9・11の同時多発テロも一面では、アメリカ主導の一極集中に対する反グローバリゼーションであることは確かだが、さまざまな相剋を乗り越えて、これからの未来像を構築していくカギは多民族のそれぞれのアイデンティティを保持しながら許容性をふかめていく「共生」のほかには考えられないだろう。松浦栄やハリー・K・シゲタが溶け込んでいったように、いまイチローや新庄、佐々木がパワーの世界で溶け込んでいく。その共生意識を寛大に深々と受けとめる風土がアメリカには豊かに息づいていることが百年前の松浦栄の写真を見てもありありとわかるのだ。 それにしても、オカノガンの町を松浦栄と栗原達男の二人が百年の時間をへだてて、まるで写し合いゴッコでもするような競作交歓の情景は、改めて不思議な因縁といわざるを得ない。見えざる神の手で結ばれた宿縁とでもいうべきか。東京・向島生まれの栗原は松浦栄の生誕の地が同じ「向島」と知って驚くのだ。たどりたどって調べていくうちに、しだいに偉大性をましていく“小さな巨人”像。 栗原達男はこう述懐している。 「19年間、追えども追えども、この人の姿は大きくなるばかり。シアトルから四百キロ以上もあるオカノガン峡谷の奥へ13回も通い、単身渡航百年目にして宿願をやっと果たせた」と。 驚嘆すべき執念の取材の持続が感動の歴史的影像の窓を天空にこじ明けたのであった。 (「日本カメラ」2002年2月号より)
- 出版社
- 彩流社
- 発売日
- 2011-07-08
- ページ数
- 200ページ
- ISBN
- 9784779116360
