
わが町にも学校を
日本統治下の台湾では1922年に第二次台湾教育令が公布され、中等以上の学校が日本人と台湾人の共学となった。これ以降、学歴社会化が進行し、都市部のホワイトカラーを中心に受験熱が高まっていった。しかし台湾では、中等・高等教育機関は統治者によりその設置を注意深くコントロールされていたため、学校数が日本内地に比して圧倒的に少なく、多くの地域に未設であった。そのような状況は、進学希望者のみならず、広く地域の住民にも問題視され、日・台双方の住民による中等・高等教育機関の誘致をめざす運動が地域単位で行われるようになった。 地域で学校が重視されたのは、進学希望者とは別の意図からであった。中等・高等教育機関の設置には、当該地域の人口規模や都市化の程度が斟酌される。ゆえに、これらの学校を有する地域は、人口が集中する都会として総督府のお墨付きを得たようなものであり、それがさらなる人口増加やインフラ整備の呼び水となり、地域の活性化が促進されるという循環の成立が期待された。この点で、中等・高等教育機関は地域振興ツールの役割を担っていたが、さらに学校の存在が地域全体の「文化度」や「格」の向上に資すると漠然と意識されていた側面もあった。 このように、ひとくちに中等・高等教育機関が必要だといっても、そこに込められるニュアンスは人によってさまざまであった。こうした展望のもとに、台湾において中等・高等教育機関はどのような存在だったのか、おもに進学希望者や地域住民の立場からその多様な意義を捉えてゆく。
- 出版社
- 九州大学出版会
- 発売日
- 2018-10-01
- ISBN
- 9784798502397
